2011年4月23日土曜日

非難区域らへんへ

おばあちゃんちが非難区域拡大によって、区域内に入った!ってなって、これは大変、ばあちゃん大丈夫だろうか???って思い、 金曜の夜から急遽ばあちゃんちに向かいました。

でも、非難区域の少し外側だったみたいです。 


もともと過疎ってる町なのですが、それにしても出歩いてる人は本当にいませんでした。車が通ると思えば「災害派遣」と書いた自衛隊のハマー(軍用車)が列を作って非難区域の方へ向かって行きました。

おばあちゃんと一緒に住んでる、おじさん夫婦はどちらも教員で、その教員のネットワークで被災地にボランティアに何度も行っていて、その写真や動画を説明と共に見せてもらい、悲惨さが一層リアルに自分の中に伝わってきました。

教員仲間も、子供を誘導中に流されてしまった人もいるとのことでした。

自分は「(こんな状況に出会ったら)どうやて逃げればいいんだろう」って考えながら写真を見ていたら、おばさんは「どうやって逃がしたらいいんだろう」ってつぶやきました。
自分は「自分が逃げること」を考えていたのに、おばさんやおじさんは「生徒を逃がすこと」を考えていました。 

自分のちっぽけさに本当に本当に腹が立ちました。

おじさんからこんな話しを聞きました。

津波が来るので、生徒を安全な場所へ避難させるために、教員の方々が考え、横の山は急すぎて危険だから、少し先にある鉄骨の橋に非難しようということになり、向かってる途中で、そこに向かってる途中で津波が来てしまい、教員10数名と生徒60名前後が流されてしまったそうです。一番最後尾にいた、教員1名と生徒4名は途中で、無理だと判断し横の崖山に登り、助かったということです。

その後、保護者達の中には教員の責任だと言う声が出始めてるそうです。

保護者の気持ちも苦しいほど分かるけど...難しいな、本当に。

今回おじさんの写真を拝借して載せようかと思ったけども、自分の目で見て、そんで写真に収めるべきだと思うから載せるのやめました。

ちゅーことで、近いうち現地行ってきます。

今ちょうど桜が満開だったけど、さすがに非難区域の目と鼻の先の地域で花見をする人はいなっかった。

とりあえず、ばーちゃん元気で本当に良かった。夜ばーちゃんに会った瞬間はなんだかよく分からないけどボロ泣きしてしまった。

なんしろ墓はすごいことになってた。

地震直後、本当かハッタリかは別としても、渋谷なんかでは5メートルに1団体くらいが募金活動をしていました。 でも今は声を張り上げて募金活動してる人見ますか? 

自分も含め、これが「民衆」ってものだと思います。

でも実際にたった一ヶ月で復興なんてありえない、こっから5年、10年、30年単位の問題です。当に本当に大事なのはこれからなんです。被災地のことを、被災者のことを本当に思うのであれば、その気持ちを持続させるためにはどうすればいいか?ってことを今一度考えるべきだと思いました。


たくや

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