朝6時に福島駅に到着して、福島で教員をしている叔父の車に乗り被災地へ。
今回は他県から来られる支援団体の先遣隊に対して、叔父が現場を案内するということで無理を言って、一緒に同行させてもらいました。
自衛隊の車と何台すれ違ったか分からない、自分の友達も南相馬で活動している。
最初に行った成瀬第二中学校の裏側。校舎の裏側はかろうじて木が倒れずに残っている。
なんだかよく分からない、とりあえず悲惨すぎる。
卒業式を終えた午後に起こった地震、今も紅白の幕がそのまま。
どっから入ってきたか分からないけど、全長10メートルくらいの大木が体育館の中に…
指定非難所は避難所の意味をなさなかった。
日本の国旗を見ると津波の水位が分かる…。手前にいるのは自分。叔父が撮影。
浜一小。 これもなんだか分からない、説明できないけど、すごい。
なんだか分からない、ぐっちゃぐちゃ。
瓦礫を米軍が片付けたら、こんな床が顔を出した。 残念ながらスケートパークではないです(不謹慎)。
その小学校の裏の民家。
地震がおさまって、家に戻った。 片付けをしようとしたら、消防団か役所の方が外で大声で叫んでいるのを聞いて、海側を見ると、向こうの方で木とか民家が動き出したり、倒れたりするのが見えて、その直後に黒い塊が見えた。 終わったと思ったけど、その時に非難する車が前を通りがかって、それに乗せてもらって逃げれた。 と、おばあちゃんのが方言マックスで語ってくれた。
自分達が去るときも、涙を浮かべながら「本当に支援してくださる方々の気持ちがありがたい」と言いながら、ずーっと、見えなくなるまで頭を下げ続けていたのが印象的だった。自分も深くおじぎしながら涙をこらえた。
途中で寄った避難所。ステージの上にあるのは、全部各地から届いた支援物資。 どう見ても過剰供給状態になっているように見えるが、実際はどうなんだろう…
なんしろ瓦礫の量が異常。 どー処理するか、どー運ぶか?この問題も実はかなり難題。 ここから消えても、どこかには運ぶしかない。 本当に想像を絶する瓦礫と泥の量だった。
遺体があるかもしれない現場では瓦礫の撤去などは行えないので、未だに手付かず。自衛隊の方々が雨の中をひたすら人海戦術で地道に捜索している。
一番多くの生徒が亡くなった、大川小周辺。 ここは河口から4キロ離れている。
この写真の先に海があるらしいが、まったく見えない。
てか車が鼻かんだ後のティッシュみたいに転がってる。。。
大川小は、生徒60名ほどと、教員10名が亡くなった。叔父の友達も二人亡くなった。
左のコンクリートが大川小、津波の情報を聞き先生方の判断で、先に見える鉄橋まで生徒と非難してる途中で流された。 この建物の奥に山があって、保護者の方々は「なぜ山を登らせなかったのか」との批判が出ているが、その山を見たけど、ほとんど崖だった。
自分が先生でもあの崖に全校生徒を登らせようとは判断できないと思うけど、でも保護者の方々からすればそーゆう気持ちになるのも当たり前だろう。
そして、この写真ではちょうど切れてるけど、あの先の鉄橋の右側3分の1くらいは、すっぽり流されてなくなっている。 そんでもって、その鉄骨の一部は川上に100メートルくらい流されている、川上にね。
雄勝町。 バス on the 公民館。 不思議。 津波の威力って不思議。
雄勝町は、すずりの全国シェアの90%を誇る伝統ある町。 ちなみにすずりとは、習字で墨をシコシコやる時の受け皿の部分のこと。
もう完全に更地になっていた。ひとつの町はたった2~3時間で更地になった。
そして、海は一体どこ? リアス式海岸は津波を抑えてくれるのかな、なんて思ったりもしたが逆だった。 山間部の谷間の部分では津波はパワーを増すとのこと。 ビル風と一緒の原理だと思う。
これは石巻だっけ?女川だっけ? すいません。ちょっと忘れてしまいました。 津波被害が酷ければ酷いほど、光景が一緒になってくる。。。 更地に瓦礫みたいな状態が、ずーっと続く。
海が見えないが、船は見える。
海が見えない。。。
道路の損壊によって、孤立していた地区も自衛隊などによって、一通りは通れるようになった。でも
女川に向かう途中の山間部は、またいつ崩れてもおかしくない部分がたくさんあった。ヒビ割れた傾いた道路の上を通るたびにひやひやした。
車がないと生活できない場所なだけあって、今中古車が飛ぶように売れているとのこと。
こんな写真はすでに、ニュースなどで見まくっているんだろうけども一応は載せてみました。
今回の行ったことで色々な状況が掴めました。
とりあえずこのGW中はかなり多くの人々がボランティアに向かっているのは確かです。
途中のサービスエリアにはボランティアツアーの方々がびっくりするくらいいました。あの時見ただけでも150~200人くらいはいたと思います。
実際に瓦礫撤去や泥の撤去などに要する人員と時間は、相当必要だと思います。 ですが、その人員を適所に送るためのコーディネーターが圧倒的に足りてないようです。 NPO団体などがやっているケースもありますが、それ以外は被災地の方々が中心になっているケースが多く、その方々はまったく休めていないとのこと。
もちろん現場を見ることによって、沸いてくる同情心などは、事態の風化を防ぐためにも本当に大事なことだと思いますが、現場の方々からすれば「ありがた迷惑」になっているケースも既に発生しているようです。
物資にしても、人員にしても、復興支援サイトやtwitterなどのソーシャルネットで呼びかければ一瞬で集まり、むしろ過剰供給になっているようです。
実際に、自分が行った時も、ある県の少年少女合唱団の代表者達が来られて「被災者を勇気付けるために、合唱団のコンサートを被災地でセッティングしたい」との内容や、ある県の小学校教員の方が「被災地の生徒さん達と心の交流するために文通を」などの提案を持って来ていましたが、
現場の教員の方々は「本当に嬉しいのですが、そのような話しは全国から来ていて、対応しきれない」とのことでした。 物資に関しても「何がほしい」とネットで呼びかければすぐに集まるとのこと。
全国の人々が何かしたい気持ちに駆られていることは、被災地の方々は重々承知してます。そしてその気持ちに対する達成感が一番強いのは「被災地へボランティアに行く」ことになりがちで、そしてそれは支援者側の自己満足であることも事実です。
(自分にもそんな思いありました)
でも現地の需要を超えたら、その善意はむしろ「迷惑」な方向に向かってしまうことがあることを、もう一回冷静に考えないといけないと思いました。
実際、こうゆうことを書いても「そんなこと分かってるし」って思う方々もいるかもしれませんが、自分ももちろんながら、こんなような懸念は行く前からありました。 でも念を押して言うべきことだなと思ったので、書きました。
ボランティア行かなくていいから被災地の旅館に泊まる、東北のものを買う、ボランティアに来ない変わりにその交通費分の10分の1でも募金する。 もっとマクロに言えば、とりあえず貯金は後回しで金を使って遊べ!!みたいなのも、有用な復興支援の形だと思いました。
なんかこの流れで書いてしまうと、ボランティアで被災地行くな!みたいな方向に思われるかもしれませんが、それは違います。ボランティア方々がやることは無限にあります、実際に山間部の小さな集落みたいなところ手つかずのままでした。
しかし、使えない車も撤去するには本人の承諾だ必要だとか、遺体が埋まってるかもしれない場所は瓦礫の撤去作業ができないとか、色々な条件があり、一気にボランティアが来ても、あまってしまう可能性があるってことを、現場の方に変わって言わなければいけないと思いました。
本当に必要なボランティア支援は、これから長期的に続くことは間違いありません。 そして同行してくださった先生方も、若者には特に、一度この現状を見に来てほしいと言っていました。
渋谷などでは震災直後は、5メートルに1団体くらいに募金活動の団体がいました。 いまではあまり見ません。 「民衆」っていうものはそんなもんです(もちろん自分も含め)。 ですが本当に大事なことは長ーく、一見では見えなくなった時くらいがスタートだったりするもんなんだと、改めて実感しました。
たくや
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