(ボランティア活動中の写真撮影などはできないので、現場の写真はありません)
金曜夜出て、朝市で福島県川俣町に住む親戚のおばさんと合流。 そこから南相馬市のボランティアセンターへ。
車を出してくれた友達のせーちゃん。こんなにキレイな新緑の広がる場所もすでに見えない危険(放射能)が広がっている。途中で野生のサルの軍団などにも遭遇した。 (ずっと寝てて本当にごめんなさい…)
九時にボランティアセンターが開き、そこから集まったボランティアの方々が振り分けられて、それぞれ活動場所に向かうとゆう感じでした。
とりあえず、そこの気になるTシャツの文字はスルーして、かなり被災地ボランティアに行くことを熱望してた友達のテル。顔も気合に満ちてます。
ここですごく驚いたし、ショックだったのが、多分80人くらいのボランティアの方々が並んでましたが、若い人がぜんぜんいませんでした。
偶然この日がそーゆう日だったのかもしれないけど、それにしてもショックでした。 きっと8割は自分達より年上の方々だと思います。
自分達の活動場所は原発から20キロの南相馬市原町区。 活動内容は畑の瓦礫撤去と、畑に水が流すための、水路作りでした。
かなりの力仕事ですが、筋トレになるじゃん!ダイエットになるじゃん! そして復興に役立ってんじゃん!って気持ちが重なり、とても気合入れて活動することができました。
テルとせーちゃんの気合の入り方も勇ましかったっす。
活動しながらずっと思ってたことがあります。それは、
津波による塩害でダメになった畑は20年~30年は使えないって言われてるのに、なんで畑作りすんだろう?ってゆう疑問でした。
途中で、この畑の主である八津尾さん(61歳)の話しを聞いて、その意味が分かりました。
八津尾さん(河北新聞より)
八津尾さんは津波によって、家や畑、そして30年以上一緒に連れそった奥さんも失いました。二台の車で津波から必死に逃げましたが、八津尾さんの後ろを走っていた奥さんは間に合わず流されてしまったそうです。
そんな話しを聞いてる中で、少し涙を隠しながら、笑って言いました。
「ずっと百姓やってきれるし、研究したりすんのも好きだ。だから塩害に勝てるような方法をこれから研究すんだ」
「非難なんかしてる場合じゃない、仲間に言ってもシラーって見られるだけなんだけども、俺はやりたいんだ」
涙もろい自分は、一生懸命涙をこらえながら、その話しを聞いてました。きっと奥さんへの無念の気持ちも重なって、こんな強い気持ちになれたんだろうなと思います。
自分は涙をこらえながら、八津尾さんと堅い握手をしました。
そのガサガサでごっつくて、やたら握力の強い手から、すごく強い魂みたいなもの感じました。
八津尾さんはすでに新聞などのメディアから、数々の取材を受けています。最初に取材されたときの記事を添付します。是非チェックしてみてください。
やはり行くことで感じることは大きいです。これによって、日々の生活の中での被災地支援ももっとやらなくちゃ!って思いました。 また絶対に行こうと思います。
そして、ボランティアの数はゴールデンウィーク以降は減っていく一方です。だけど復興には「細く長い援助」が必要です。
少しでも「行こうかな」って思ってる方は、是非一度でも行ってほしいと思いました。物資の整理や、アルバムなどの洗浄など、女性でもできることもたくさんあります。
気合入れすぎて朝からTシャツだったために作業用の長袖を借りました。
左からせーちゃん、自分、てる
休憩中。帽子はボランティアセンターでくれました。
今回は叔父さんの家に泊まることなどもあり3人で行きましたが、また行くと思うので、「一緒に行こうよ!」って人は連絡くださいな~。
オフショットはこちらから
一緒に行ったプレシャスアースのメンバーでファッションカメラマンのテルのブログもチェック
たくや
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